まちかです!よろしくおねがいします。

まちかと申します。20代です。思ったことを発信していきます。

やっぱりSNSが苦手なの。でもいいの。

おはよ。まちかです。よろしくお願いします。

 

 

うーん。

やっぱりSNSが苦手、というかめんどくさいのは変わらなかったようなので

同じような悩みを持つ人に読んでもらえれば個人的にはハッピーな感じで記事書くのね。

 

わたしが最初にブログに書いた記事は↓の記事なのね。1年半前の自分もSNSが苦手だっていってるよね。

まあそんな中、途切れながら続いたこのブログはわたしの中では革命的な出来事なのかもしれないの。

 

macska23.hatenablog.com

▲過去の文章ってとってもはつかちぃよね?

 

Twitterの圧力

わたしはネットが好きなんだけども、

そのよさっていうのは不特定多数との離合集散というか、あるようでないようなコミュニティーというかそういうものだと思うの。

 

それはリアルな生活では人間関係にたっくさんの責任がくっついてくるんだけども、

顔の見えない、何してるかもわからない昔のネットの世界では

そういうのが薄かった気がするのね。

 

もちろんそれは責任がないから無責任に他者に迷惑をかけていいとかそういうことじゃなくて、

ラインみたいな「既読」表示とかがない世界だから発信された情報に対してアクションを起こさなくても何も問題がなかったような世界なのね。

 

その点、わたしがやっぱり一番キッツイなぁ〜って思うSNStwitterかもしれないのね。

 

なんというのだろうか。

Twitterの圧力ってすごいものを感じるの。

1時間でも見なかったらあっという間に話題に乗り遅れる感じ。

わたしは割と、そう割と、ゆっくりとした人間だと思うから情報の取得には結構時間がかかるし自分の頭で色々精査したいとも思うの。

 

でもTwitterではそんなマイペースは飲み込まれるし、何よりこれはわたしの勝手な考えなのだけども個人的にはツイートにアクションを求められているようでくるしーくなってしまうの。

リツイートとかお気に入りとかあるじゃん。ボタンが。

 

もちろんアクションなんてする必要はないのだけど、おそらく。

Twitterを見てると勝手にそういう恐怖にかられるの。

リツイートとかお気に入りとかあるじゃん。ボタンが。

 

それに、自分からフォロー、フォロワーを選択する感じのシステムはわたしの好きな必要な時に必要な人と協力するような離合集散型の楽しみ方じゃなくて、

実はかなり強固にコミュニティを形成するようなスタイルじゃないかと思うの。

 

自由であって実はとっても自由じゃない感じがするの。

 

もちろんそんなことを気にしない人にとってみれば、「Twitterをどう使おうが自由じゃん!何言っての?」って感じかもしれないのだけども、

 

謎の強迫観念(人のツイートちゃんと見ろよ〜。放置するなよ〜。リアクションしろよ〜……)を感じちゃうセンシティブなわたしのごとき人間は、そうは思えないのね。

 

外的か内的か

まぁSNSもどうも人間関係の延長、それどころか今後は人間関係のメインストリームに乗ってきそうだけども

そうなると、人との向き合い方が外的か内的かでその快適度というか、SNSとうまく付き合えるかが決まってきそうなきがするの。

 

わたしは多分に人間関係において外的な方なの。

 

ここでいう外的、内的は社交的かどうかとかそういう話ではなくて

自分の評価をどこにおいてるかの話なの。

 

ということは外的とはつまり、自分というものを他者との関係の中で見出す感じなの。

言い換えれば、意外と人の目を気にしてる感じ。

 

逆に内的な人は、自分の中にある価値に従うことができるから人の目を気にすることが少ないと思うの。

 

外的な人間にとってSNSは結構疲れるものだと思うのよ。

なんにつけても気になりつつってなるし。

 

それに合わせてわたしはマメでもないので、更新もしないし……。

 

そういうことを思うのは疲れるよね。

 

その点、ブログはとってもよかった

で、諸々考えるとブログってやっぱり本当に良かったなぁ〜って思うの。

 

まずね。それなりの文字数をかけるからわたしみたいな考えるのが遅い人、お話をくどくやっちゃう人には本当にあってると思うのよ。

スピード感がないのね。

 

それに、結局このブログも日数にすると500日以上経ってるけど記事は40くらいしかないのね。

だけども、それで「あ〜なんか放置してて辛い……」っていう謎の強迫観念も起きないのね。

それって素晴らしいことだよ。

 

思考を整理したり日記みたいなチラ裏エントリーあげてみたり、気負わずに色々できて本当にいいなぁって思うね。

 

SNSが苦手ならブログやってみなよ!

だからね。

SNSが苦手でTwitterとかfacebookとかで謎の苦悩を感じる人はブログやって見たらいいのじゃないかな?って思うの。

 

別に顔出さなくていいし、個人につながること出さなくていいし、

ずっと張り付く必要もないし

投げっぱなしでもどこかの誰かが読んでくれてるのは嬉しかったりするし、

色々いいよ。

わたしみたいなSNS苦手だけど言いたいことは多い人間にはうってつけだよ。

 

何にでもお金や評価を絡めるんじゃなくて

今はさ、就活とかでもSNSを使うっていうじゃん。

確かにそれは結構理にかなってるのかもしれないとも思うの。

結局は人となりを見るんだし、SNS、特にTwitterとかFacebookってそういうの露骨な気がするし。

 

だけどね、それはなくても別にいいと思うのよ。

もちろんそれを条件にしてるところもあると思うけど、

それは多分結構疲れると思うの。

ちょっとでも「あーSNS見られるのかぁ」ってなんかげんなりしたら自分とは縁がなかったって思った方がいい気がするの。

 

絶対に入りたい会社ならSNSが辛くても努力するべきだとは思うのだけど、

長い目で見ればとっても疲れちゃうからあっさりするのも大事だと思うよ。

 

わたしも一応フリーで仕事したりしてるけどTwitterfacebookほとんど触ってないし。

もうフリーの世界では「SNSマスト」みたいな空気がすごいよ。

でも、やってなくてもそれなりに仕事できてるし、それによって何かを失敗したとかはないかな。

 

確かにSNSでの拡散力やつながりっていうのはお金に変わったり、それが評価に変わったりっていう側面はあるんだけども、

人間の価値を決めるのはそれだけじゃないのも確かなのね。

 

だったらそれだけに縛られるっていうのもなんだかナンセンスなものに感じちゃうの。

 

だからわたしは今後も今みたいな感じでSNSと向き合っていこうと思ってるのね。

 

だからSNSで悩んでる人は実は悩まなくてもいいよ!

 

誰かがこう言うのって大切な気がするし、言っとくよ!

 

 

 

自分が考えてることを壮大に文章にした雑文。

 

ご拝読ありがとうございますにゃ!

 

 

ありがとうございました。まちかでした。

 

 

 

 

【あんちゃ】無知を晒しつつお金を出してくれた信者を煽るスタイル【まじまじぱーてぃー】

こんばんは。まちかです。よろしくお願いします。

 

 

なんか筆が乗ってきたぞーーー。

 

普段人のブログはほとんど読まなけいど今日ひっさしぶりに彼女のブログを読んでみたよ!

 

そう。

宮森はやと氏がなんかよくわかんないことになった後このブログのPVを確保してくれているあの人。

 

まじまじパーティーのあんちゃ氏。

 

なんでも今海外にいるのだとか。

ええねぇ……。ホンッキで羨ましいのね。

わたしも海外行きたの。

 

はい。

 

てことで海外で無知を晒しつつお金を出してくれた信者を煽るあんちゃ氏にまちかが言いたいこと言います。

 

 

 

あ、ちなみにわたしは海外エアプじゃないから安心してね。

 

最初の就職先が中央ヨーロッパにある小国の従業員8人の現地企業だったからね。

 

 

あんちゃ氏、信者のお金で海外にいきながら信者をディスる

まあヨーロッパに行くのにあんちゃ氏はインド経由で行ったそうです。

時間はかかるけどお金抑えられるし(実はそこまで抑えられない)いいんじゃないかね。

わたしも初めてヨーロッパ行った時は中東経由したのを覚えてるよ。

乗り換え含めて30時間くらいかかったような気がするよ……。

滅入るよね。

それだけなら割とあるあるなんだけどもね。

 

これについてあんちゃ氏は

 

www.mazimazi-party.com

 

だそうです。

 

わたしの所感なんですが「時間を無駄にしてる感」がすごくあるんです。

寝るにも寝れず、仕事や読書するにも揺れで酔ったり…備え付けのモニターで映画を見ることくらいしかまともにできませんでした。

(しかもデリー→アムステルダム間はよくわからんインド映画ばっかりだったw)

 

休むに休めず、仕事するにもできず、到着後はただ疲労感と時差ボケが残ってダルいっていうのがなんか許せなかった。笑

疲れるのが嫌とかではなく、時間のパフォーマンスが落ちてるってのがもったいないというか。。

引用元:飛行機に17時間乗ったら「あ、お金を稼ごう」と決意した | まじまじぱーてぃー

 

ええわー。

クラウドファウンディングという名の投げ銭で信者から巻き上げた金でとヨーロッパ行って、その上でさらに「飛行機に金かけれなかったから時間無駄にしてる感すごかった」だって。

 

さすがにクールだわ。

 

信者ちゃんのお布施が足りなかったみたいなのね……。

 

ちなみになんやけどね。

 

彼女はパフォーマンス云々言うとるけど……。

君、なぜかヨーロッパにPC持って行ってないやん!!

 

きゃなしぃ……

 

顔出し女ブロガーのパフォーマンスってあれやろ!

 

オサレなカフェテラスでMac book Pro&コヒーカップと一緒に現地のランドマークを見切れさせた笑顔の写真を撮ることやろが!後ろをオサレな犬を連れた現地の人が歩いててその人が微妙にピンボケしてたらなおよしやろが!

 

自分のブログに群がる方々が何を求めとるかもわからないの?

ブランディング云々言うんならそこで手を抜いちゃダメ!

 

こう言うナチュラルな抜け落ちってやっぱりきゃなしぃよ……。

 

今度からは持って行って件の写真撮るようにしてな。まちかとの約束だよ!

 

インドでとんでもない無知を晒す

はい次。

 

まあ大方

海外に行く機会の多い人ならば知ってると思うけども、

国外では観光地や空港、駅なんかのトイレって大体がチップを求められるよね。

アジアでもイギリスの影響下にあったインドもその例に漏れず。

 

でもってね。

あんちゃ氏は、経由地のインドでトイレに入ってチップを要求されてこう言う感想を述べておるわけです。

 

まさかトイレでチップを払うなんて想像していなかったので「うわっまじか」と思ったんですが、それと同時に

「仕事ってなんでも作り出せるんだなぁ」と感じたんです。

参照元https://www.mazimazi-party.com/entry/delhi-chip/

 

まあね。初めての海外でトイレに入ってチップを求められたことに驚くのはいいと思うの。

新鮮な体験だよね。

わたしも初めて行った海外旅行で有名な公園のトイレでチップを入れなきゃ入れないことがあってとっても驚いたもの!

 

ただね。

「仕事ってなんでも作り出せるんだなぁ」と感じたんです。

これ!(笑)

 

この一連の出来事に遭遇して、良いか悪いかは別として

仕事ってなんでも作り出せるんだなぁ」って実感したんですよね。

 

たぶんあの女性も自分ができることの中でチップがもらえそうな場面を考えてあのトイレにいたと思うんです。

(しかも到着口すぐのトイレだったので観光客がよく来るトイレだった)

 

コレいけてないわ〜……。

 

わかる。わかるよ。

何にでも自分の思考の延長で意味をもたせたいのはわかるよ。

特に新鮮な体験をした後ならなおさらだよ。

 

そう言うところにも目ざとく気づける自分にもちょっと酔うよね。

とってもわかるよ。

 

ただな。

あの仕事はそのひとが作り出したもんやないのね。

 

なんと言うんだろう。

 

一応、信者を抱える教祖様やろ?

だったらそう言う誤った認識を撒き散らすような情報を出すのはもうちょっと考えてからやったほうがいい気がするの。

 

ムッチムチのにゃんこは可愛いけど、「人生哲学」が趣味なら知性と教養を兼ね備えたほうがいい気がするのね。ただの無知を晒しつつ悦に入るのはなんか違う気がするのね。

 

これは、最初のことほどじゃないけどちょっときゃなしいの。

 

 

 

 

さてあんちゃ氏!

わたしはヨーロッパからのさらなる報告をとーっても楽しみにしてるのね!

信者のお金で男とヨーロッパ行ったんのなら、楽しませるレポートをちょうだいにゃ😻😻

 

 

 

 

ありがとうございました。まちかでした。

 

 

 

【Twitter】坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。それでいいの?

こんばんは。まちかです。よろしくお願いします。

 

真面目な話

 

自称プロブロガーが嫌い

わたしは自称プロブロガーが嫌いです。

もうなんと言うか、一応広告業界とか出版業界とかの隅っこにいるので、twitterなんかで暴れまわる彼ら彼女らがいやでも目につきます。

そして何よりも「どう考えても姿を変えた情報商材屋さんじゃん」と感じてしまいます。

ブロガーにしろ情報商材にしろ、ネットのたっかい広告にしろ

それが利用者の利益になる部分があるのであれば否定しません。

ただ、今のネット界隈、情報ビジネス界隈は情報格差を利用した先手必勝の騙し合いなのね。

 

その中で自称プロブロガー界隈は徒党を組んで情報弱者にありそうな人たちをだまくらかしているのね。

それは賛同できないよ。

嫌いだよ。

 

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い

ただね。

わたしは別にだからと言って自称プロブロガー界隈が住んでいる地域や食べているものにまで干渉しようとは思わないのね。

 

どこに住もうが人の勝手、何を食べようが人の勝手。

それが法や倫理に照らしてみて問題がなくても、別に個人の自由じゃんとしか言えないようなことでも、「いやどう考えても悪だ!」なんて言えるのはちょっと怖いと思うのね。

 

まあ坊主が憎くても袈裟まで憎む必要はないよね?

わたしはそう思うのよ。

 

でもね。プロブロガー界隈を嫌いな人たちの中には、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いをわざわざ実践してくれている小さい人間の見本みたいな人たちもいるの。

 

イケダハヤトちんが高知に住んでて、いろんなブロガーが高知を目指して

その流れを見て

「高知に住んでる人ってあれだね」的な発言をしている正論系のブロガーさんとか。

そう言うの見ると

なーんで「ブロガー界隈に感情的にTwitterブロックされた」と言いながら自分も全く持って論理的じゃない感情論でディスってるの?

って思っちゃうわけよ。

お猿さんを食べたのをディスってる時も、「この人なんて無知を晒してんだろ。かっこ悪い」と思ってたの。

ちょっと調べればお猿さんを食べる場所はあるし、日本で猿を食べてる人がいてもそれはそいつらの自由でしょ?

ましてや別に常食してるわけでもないんだからね。

 

わたしは一時期四国に住んでて高知も良く行ってたから高知すきだよ。

 

残念

批判はなんにでも噛み付けばいいってもんじゃないよ?

多いよね。そう言う人。

 

せっかく頭いいんだったらもっとロジカルに行かなきゃ。

なんと言うかな。

思考の浅さというか、自分が所属するグループ、自分が知っている人、著名人、

それ以外は全て批判の対象!みたいな空気を感じるよね。

肩書きとかに結構なびく人がやっぱろ多いのかな?と残念になったよね。

 

まぁ、ちょっとずれた批判をしてもそれが話題になればいいやとか考えてたのかもしれないけれど、

それは読者を馬鹿にしすぎよ?

さすがにずれすぎてて笑いが出るわw

 

 

ここ最近の発言を見てて。

ざんねんに思ったの。

 

 

ありがとうございました。まちかでした。

 

 

 

 

 

 

【プロブロガーの】木を見て森を見ないさんたちへ。【信者さん】

こんにちは。まちかです。よろしくお願いします。

 

ちょっとした事故にあって

ちょっとしたことでは済まないようなことになってました。

 

生きるって大変。

 

おおきな木

大きな木があるの。

遠くから見ても結構目立つから、その木の近くに行って見たくなる人がたくさんいるの。

その木を見た人は言うの。

「とても立派な木だ」

「こんな木がある森が近くにあったなんて、素敵だわ」

 

とっても目立つおおきな木

み〜んなその木に夢中なの。

 

大きな木の下で

ある日、大きな木のしたに落ちた小さな木のタネが小さなモグラと話すの。

モグラ「やや。こんなところに落ちちゃって大変だね」

タネ「なんで?みーんなこの木が大好きなんだよ!だからわたしもここにきたの!」

モグラ「うーん。この木はね、周りの栄養と太陽の光をぜーんぶ吸い取って大きくなってるんだよ。だから、この木の近くではきみが大きくなるチャンスはないんだ」

タネ「そうなの……?わたし怖くなってきちゃった」

モグラ「よく見てごらん。この森、特にこの辺の木や草を。みーんな小さくて元気がないでしょ?」

木、草「……」

タネ「ほんとだ。本当はとっても怖い場所だったんだね」

 

プロブロガーのモデル

プロブロガーはとにかく目立てば短期的には勝ちなところがある(長期的には超絶負けです)。

そのために顔出しして、Twitterのフォロワーを水増しして(憶測)、炎上を狙って頑張っている。

目立てば人が寄ってきて、「すごいね」「素敵だね」と言ってくれる。そしてそれがさらに人を呼ぶ。

 

しかし、その中に一歩入ると実はプロブロガー周りで後発組の成功者がいないことに気づかないだろうか。

 

大きな木の下では養分を吸い取られるだけで自分は大きくなれないのだ。

 

しかし、プロブロガーはサロンを運営し日々信者に向けて発信する。

 

「個人で稼ぐ時代が来ました!みなさんのやり方(ためる)……間違ってますよ!!(ドンッ)」

 

信者になる人たちは信奉するプロブロガーだけを見て、

「ブログって儲けれるんだ!」

「これからはフリーランスの時代だ!」

と考えてしまう。

 

どうして森を見ないのだろうか。

 

その木のしたに無残に転がる無数の無念に目を向けないのだろうか。

 

石田ゆう……ゴホんっ

 

 

 

 

文章のキレがないですが

 

太陽フレア

 

せいなのね

 

(まちか)

 

 

次回

「【はてなブログの】森だけ見て分析した気になってるさんたちへ。【悪い癖】」

 

乞うご期待!!

 

 

ありがとうございました。まちかでした。

 

 

 

 

妊娠中退についてまちかが思うこと|「宗教」が消えた今

f:id:macska23:20170715153155p:plain

こんにちは。まちかです。よろしくお願いします。

 

この記事読んで書かずにはおられなかったの。

 

mainichi.jp

 

完全に「チラシの裏」な記事だとも思うから、「偉そうなこと言って何も言ってない!」ていう批判があっても何も返答できなそうで、なんだか申し訳なくもあるのだけれど自分の思考を文字にしておこうと思うの。

 

お話の主題は「宗教」や「学校」なの。

わたしはもともとキリスト教徒で、数年前まで学校の教員をしていたの。

そういう人間の戯言だと思ってもらえばいいの。

 

わたしは歴史の中で宗教が持ってしまった「他者への押し付け」はとてつもなく嫌いだし、「宗教があれば全部解決する!」とは思っていないの。

むしろ、宗教が現代の問題を複雑にしている部分も多分にあると思うの。

 

わたしが提案したいのは、宗教自体も時代に合わせて変化して、より今の時代と今の人間にあったものに昇華すべきという考え方なの。

 

それはまだわたしの中で言葉になっていないものだし、論理としてもチグハグなのかもしれないけど、たかだか20数年かもしれないけれど、わたしが生きてきた中でほとんど確信に近いものになっているの。

 

ゲゼルシャフトゲマインシャフト

学校の教員をやっていて、学校というコミュニティーが極めてゲゼルシャフト的なものになっていることを身を以て感じたの。

 

わたしは、もともと歴史学の中でもいわゆる教育史を専門にしていたのだけど、

近代に入って国家の力が増してきた時から徐々に教育の持つ意味は変わっていって、決定的な変化は19世紀後半に起こったと思っているの。

 

それは言うまでもなく資本主義が国家の力を借りて拡大した過程の中での話なの。

逆に国家が資本主義の力を借りて拡大したとも言えるのだけど、その辺は今回は置いておくの。

 

とにかく、19世紀から現代にかけて、学校の持つゲマインシャフト的な側面は極めてゲゼルシャフトなものに置き換わっていったの。

 

もちろんだからと言ってそれ以前の学校や社会がユートピア的なものだったとは決して思えないの。

人間の社会はこれまでもこれからも最高でもやっぱりずっと60点くらいだと思うの。

 

だけども人が集まる中でゲマインシャフト的なつながりが消えていってしまうことは、決して良いことではないと思うの。

 

 

子どもの凶悪犯罪と妊娠中退に底通するもの

今回の妊娠中退に関する意見をSNSなんかで見てて、

性教育の失敗」をいう意見があるのを結構発見したの。

それに当然のように「自己責任論」も展開されているの。

 

わざわざ引用はしないけどかなりの数の注目を集めているの。

 

もちろん、そこに原因を求めるのは自由ではあるのだけど、わたしが思うのはそう言う表面的な問題ではない、もっと深い問題が関係していると言うことなの。

 

極めて個人的な意見なのだけど、今回の妊娠中退に関わる問題は、子どもの凶悪犯罪やいじめの問題なんかとも底通するものなの。

 

それに社会が「子どもの存在」を作り出したのだとしたら、やっぱりしっかりと保護することがこの社会の責任だと思うの。

自己責任で片付けてしまうのはあまりにも無責任が過ぎると思うの。

 

「道徳教育」と人間

これは道徳の教科化のときにも散々議論されたものだと思うけども、

上のことを考えるときに、道徳教育の罪は極めて重いと思うの。

 

2つ目に携わった学校で「道徳主任」を経験したわたしは、日本の道徳教育が極めて傲慢な価値観の押し付けであり、子どもたちもその教科としての空洞化に気づいていることをひしひしと感じたの。

 

価値観の押し付けというか、行動ルールブック的なものに感じたの。

ルールということは○と×で判定できるの。

 

その行動は○!

その行動は×!

 

そういうのが明確に判定できてしまうようなものなの。

そこには本来もっとも大切にすべき自分の意思は介在しないの。

人間は本来、自分で考えて行動してて、子どもたちの教育では「どう行動するのが正解か」ではなくて「どう考えて、だからこう行動して、それにはどういう意味があるのか」を問うべきなの。

だけども、学校教育における道徳にその力はないの。

 

もちろんこれはゲゼルシャフト化した学校で広まったものなの。

ゲゼルシャフトな集まりは効率や利益の追求なんかと親和性が高いのだけど、

学校にも時代を反映してそういうものが入り込んでいるの。

 

学校の会社化とも言えるかもしれない。

 

もちろん、それについて「国家権力の個人への介入だ!だから政治をどうこうしろ!」とか叫ぶつもりはないのだけども、どうしてもわたしには馴染めない考え方なの。

 

社会全体に欠けている「自分とは」「よく生きるとは」という問い

とてつもなく極端な話に感じるかもしれないのだけども、「宗教」の喪失を学校「道徳」は埋めることができていないの。

わたしはカトリックだから、宗教に関する敷居が人よりも低いのだろうということは感じているの。

その上での意見なので、全くもって客観的かと言われればそうではない可能性の方が高いと思うの。

 

だけども、わたしのいう「宗教の喪失」は、「神を信じろ」とかそういう価値観が消えたことを指摘しているのではなくて、もっとも根源的な宗教の役割についてなの。

それは「自分の生き方を客観視する視点」が消えたことを指摘する言葉だと思って欲しいの。

 

「悪いことをしちゃいけない」とか「誰かに見られている」とか「自分の正しさが果たして本当に正しいのかどうか」とか

そういう感覚が薄れていることが重要で、本来であれば宗教が埋めていたそういうある種の客観的な要因による理性の維持を今の道徳教育は全くもって保証していないの。

 

これは子どもによる悲惨な犯罪が起こるたびに思うことだし、今回のような個人の生き方に関する部分でもいつも思い出すことなの。

 

そして子どもたちは社会を映す鏡だって言われたりするけど、まさに今の社会にもこの感覚が欠けているの。

   

人間の限界

色々なものが便利になってるし、ある意味、人間はたくさんのものを支配下に置いているの。

だけど実はそのことに支配されているの。

ある種の全能感とか直線的な進歩観とか。

 

それは前時代的なものだと考えられるものを否定し、嫌い、

本来、実は人間が無力である場面でも優位にいるという錯覚を作り出しているの。

 

わたしはその社会が孕む危険性が今まさに目の前に突きつけられていると思うの。

 

ある種の問題が発生したときに「必ず個別に対応する方法がある」と思えてしまうのはその例だと思うし、目の前の課題を別の問題に置き換えて解決した気になってしまうのもその例だと思うの。

 

実はもっともっと深いところに問題が横たわっているの。

 

60点の社会だけど

こうやっていろいろいっても60点の社会はやっぱり60点だし、過去を鑑みればそれは幸福な数字だとも思うの。

だけど、その少しだけ上に、

全体に共有される「他人への親切」や「自分の行動の正しさに疑問を持つ」っていう感覚があれば、もう少しだけ豊かな未来があると思うの。

 

それが一律に「こうだからこうだ」という行動の規範みたいなものを決めてしまっても、それは解決にはなっていないの。道徳教育と一緒なの。

 

だから、宗教が消えてしまった社会で、社会全体に広がるようなそういう内面に訴えかける存在が必要だと思うし、それは決してこれまでの宗教のようなものでもダメだと思うの。

 

「自分を大切にする」という根本的な部分が、何にもまして大切ではあるのだけど、

それを社会の中で共有されうるような感覚にしていくことが大切だと思うの。

 

それは「自分だけが大切」ではなくて「自分もみんなも大切」だと思う感覚で、それが共有される社会こそ、今の時代に「宗教の次の宗教」が目指すべき形だと思うの。

 

最後に

もちろん、今回の妊娠中退の問題が、

わたしの書いたようなことだけで完全に解決するとは言えないかもしれない。

その解決には、

文化的再生産をクリアする社会的な制度の導入が必要かもしれないと思うの。

 

だけど、今の社会とある種の倫理観の間にある絶望的なまでの距離を言わずにはおられなかったの。

 

まちかの小言だと思ってくれていいけど、心のどこかで考え続けてもらえれば幸いです。

 

ありがとうございました。まちかでした。

 

 

権利侵害の「NEVERまとめ」を許すな〜諸悪の根元に関する一考察

f:id:macska23:20170710171236p:plain

 

こんにちは。まちかです。よろしくお願いします。

 

あるキュレーター(笑)がランサーズで

「あの人気のNEVERまとめで記事を執筆してください!1記事500円です!バズる記事を書ける人には1記事50円〜のボーナスもあります!」

とか募集をしていたクソサイトNEVERまとめ。

 

※以下、くそくそ言って申し訳ありません。ちょっと怒りが抑えられそうにないもので。

 

インターネットに散らばる情報を集めて、わかりやすく(サイト自体は決してわかりやすくない)まとめるのはいいですが、

金儲けの手段と成り下がり、知的所有権著作権に関するガバナンスもガバガバな、現代を代表するインターネットのキャンサーです。

 

下記に絶対読んでおいた方がいい記事を貼っておきます。

NEVERまとめみたいに、1つのサイトにある情報を切り離し自分たちの利益にするようなやり方はしませんので。

 

www.utali.io

 

カメラマンの方が写真を無断転載され、その取り下げを勝ち取った一連のやりとりとか、第3者ながら本当にNEVERに対して腹立たしい限りです。

www.photo-yatra.tokyo

 

 

会社としてのやり方もクソクソアンドクソ。

anond.hatelabo.jp

 

インターネットの利用者は「ネットリテラシー」と言う言葉を知っている人とそれを深く理解し、実践しようとしている人、

それよりも「ネットリテラシー何それ?」な人の方が多いわけですね。

NEVERまとめを見ると、そう確信せざるを得ません。

 

ではガンガン言いたいこと言っていきます。

 

「キュレーション」の有用性

まずNEVERまとめは、いわゆるキュレーションメディアです。

昨今、キュレーションメディアに対しる批判が相次いでいますが、わたし個人としてはキュレーションメディア(まあ単純に「まとめサイト」なのだけど)は必ずしも悪ではないと感じています。

 

むしろ、「情報化社会」なんて言葉が教科書に載ってるような時代に、「誰かが煩雑な情報をまとめてくれる」と言うのは、非常に有益です。

 

だいたい情報を探すために、ある程度のネットスキルが必要なわけで、それがない人とある人では検索の仕方さえも大きく差がつくわけです。

そんな時に「必要な情報を必要なだけ」提供してくれるキュレーションメディアがあれば、ネットに詳しくなくても自分の必要な情報をネットから引っ張り出すことができるのです。

 

その意味で、ネット界隈のキュレーションは非常に重要であり、優秀なキュレーターは今後ますます必要なわけです。

 

くだんのくそキュレーションは素人まとめ人による素人まとめ記事ばかりのくそみたいなメディアだったんです。

 

言うなればキュレーションメディアという考え方がくそではなく、キュレーションメディアの運営を誤った方向で行ったリッチメディアとかDeNAとかのくそ企業と、くそみたいな金額のお金でくそみたいなキュレーションをしたくそライターがくそだったんです。

 

ただであることをいいことに適当に切りはりするキュレーションメディア

ネット上でアクセス可能な情報はほとんどがただです。

 

わたしは書店やコンビニで売ってる雑誌の編集や執筆をメインのお仕事としていますが、やっていることはキュレーション(情報をまとめる作業)です。

ただし、莫大なコストがかかっています。

情報の取得や情報の信頼性を確保するために取材し、カメラマンさんに写真を撮ってもらいます。

 

たった2ページの記事を書くために、編集さんのお給料、ライターの原稿料、カメラマンさんへのお支払い、取材先への謝礼、デザイン費用、全員の交通費、宿泊費、諸々そう言うものがかかっています。2ページ作るだけでも、何十万円もコストがかかっているわけです。

そこまでやって初めて、価値のある(正誤がはっきりしており、発言者が明確な)情報が雑誌で公開されるわけです。

 

ただし、もし。

ネット上にある情報だけをソースとして記事を書いたり、そもそもネット上にある情報だけを切りはりするのだけであれば、事実上コストはかかりません。

 

このネット上にあるただの情報だけで切りはりしたキュレーションメディア、その代表格がNEVERまとめになるわけです。

 

ハイパーリンク:「無料(ただ)」だが権利が発生している

ネット上にある情報はただのものが多いですが、そこには作った人、書いた人の権利が発生しています。

ネットではそれをハイパーリンクを設置することで、情報発信者の元への経路を作り、権利者に答えるわけです。

 

出版全体が縮小し、ネットメディアが拡大している最大の要因はこのハイパーリンクだと思っています。

 

わたしはこのハイパーリンクという考え方が大好きです。

何より便利です。

 

暇な時にはスタートとゴールを決めて、固有名詞だけでWikipediaハイパーリンクをたどる遊びをしています。

スタート「ディスペンパックジャパン

ゴール「剣闘士」

とかです。その間に開いたページを全部読むことで、なんかだかわからない知識の体型が頭の中に蓄積されていきます。

 

雑誌も早く感覚的に触って情報元に関するさらなる情報を追えるようにしないと、無くなります。

 

ハイパーリンクの良さは、ただ(無料)でありながら情報元(権利者)の権利を最大限に守っている部分です。

もっと情報を知りたい読者は、情報元である権利者のサイトを見ることができます。それは情報元へのアクセスを増やし、権利者の利益につながるはずです。

 

でも。

この便利なハイパーリンクの存在を闇の彼方に葬っているのがNEVERまとめなのです。

 

リンクなしの引用

NEVERまとめはリンクなしで様々な情報を切りはりしています。

 

ちょっと検索してみればすぐに引っかかるNEVERまとめですが、すぐにリンクなしでテキストや写真、イラストを使っているページを見つけることができるかと思います。

 

さっきも言ったけど、ネット上の情報はただだけどそこには権利者が存在しているのです。

 

それを完全に無視してお金儲けをしているのがNEVERまとめなのです。

 

こんなくそみたいなまとめサイトのNEVERまとめに「知的所有権」に関するまとめすら存在するとかお笑いですよ。ほんと。

 

くそみたいなまとめの仕方

さてここからは、リンクなし(著作権侵害)のお話から離れて、まとめの仕方のくそさを書いていきます。

 

1.書き手のモラルハザードと知性の薄弱さ

まずこの記事です。

 

matome.naver.jp

▲批判ポイントは下記で説明するので、決して開かないでください。お願いします。

 

わざわざ【保存版】とかタイトルに書いたくそ記事。

「寝れないときでも眠くなるつまらないサイト」

と銘打って複数のサイトを紹介しています。

 

この中に「青空文庫」が紹介されています。

青空文庫著作権の切れた文学作品を誰でも読めるように有志によって運営されているサイトです。

青空文庫 Aozora Bunko

▲サイトはこちら

 

このまとめで青空文庫の紹介にはただこうあるだけです。

文学は難しいのも多く眠くなりますよね

出典:【保存版】寝れないときでも眠くなるつまらないサイト - NAVER まとめ

 

文学が難しいとか読んでいて眠くなるとか、そういうのは個人の勝手です。

本が好きなわたしでも眠くなる文学作品はあります。

 

ただ、私企業が運営するたくさんの人が見るような広告出稿費250万円のサイトにこういうことを書いて、しかもこのまとめの仕方に青空文庫さんのリンクを堂々と貼るのは頭が沸いてるとしか思えません。

 

2.名文がくそまとめのせいで駄文になる瞬間

ネットの世界には真偽は置いておいて名文や良テキストが存在します。

大分前ですが、2chに投稿された話が小説、ドラマ、映画となる先駆けとなった『電車男』なんかいい例です。

真偽は定かではありませんが、娯楽小説として多くの人を楽しませました。

 

ネット上には名文がたくさんあるのです。

 

しかし、NEVERまとめのくそキュレーションにかかれば、どんな名文もあっという間に駄文に成り下がってしまうのです。

 

それがこのくそのようなくそ記事です。

matome.naver.jp

 

感動する別れの言葉を紹介していますが、この記事に関しては

「” ”」の引用符らしきものを使いながら、その出典が記載されていないものがたくさんあります。

名文風に色々な名言に混ぜて自分で考えた寒い言葉をたくさん書き散らしているわけですよね。

くそにくそを塗るくその上塗りに心が痛みます。

 

「感動」は極めて主観的なので人それぞれではありますが、別れの時に「お前」とか上から目線で謎の講釈を垂れられたら

「おけ」としか思いません。

愛することの意味や、愛される喜びをお前は全部
  教えてくれた。

  別れるっていうこの辛さは知りたくなかったけど、
  お前から全部教えてもらうってのもありかな」

出典:感動する恋愛での別れの言葉 次に繋がる別れの名言 - NAVER まとめ

 

そしてこのくそみたいなテキストが並ぶくそみたいな記事に、名文だと思えるものもまとめられているわけです。

 

こんな私を好きになってくれてありがとう。
お味噌汁がおいしいと言ってくれてありがとう。
こんな私を可愛いと言ってくれてありがとう。
あなたが私を好きでいてくれた事が、私の自信となりました。

本当の出典:

引きずるほど心に残る、別れの言葉・感謝の言葉 - 恋愛相談 解決済み| 【OKWAVE】

 

こちらの言葉OKWAVEに投稿された質問に対して、ある方が過去に彼女からもらった手紙の内容を紹介したものです。

 

ベストアンサーに選ばれているので見てください。

 

もちろん、ネットのお話は真偽不明のものがたくさんあります。

なので、このベストアンサーも当然真偽不明です。

でも素敵な言葉であることに変わりはありません。

テキストの雰囲気、書かれている方の想いが伝わってくるようです。

 

それがNEVERまとめでくそまとめ人の書いたくそみたいなテキストと並べられ、

同格のくそ名言かのごとくなってしまっているのです。

 

 

「やっぱり1番好きな人とは一緒になれないのかな・・・
  お前よりいい女を見つけて1番好きになる。

  だから2番目になったお前と、またつき合えたらいいな」

出典:

感動する恋愛での別れの言葉 次に繋がる別れの名言 - NAVER まとめ

 

これに感動できる感覚ってわたしには一生理解できそうにないです。

 

人並みに恋もしてきたし、人並みに別れも経験してきました。

でもこの言葉に感動することは絶対にないと言い切れます。

 

こんなの言われたら「自己矛盾……」と一言残して家に帰ります。

 

こんなのと並べられたら、言葉の意味は消え失せます。

第一、わたしが名文だと思ったテキストは、ベストアンサーの回答者さんの全部を読んで初めて心にじんわりくるようなものです。

 

NEVERまとめの切り取り方、まとめ方がくそなばかりにかわいそうです。

 

ネットギャングのNEVERまとめを許すな

もはや擁護のしようがありません。

あまりにも酷すぎます。

NEVERまとめが大好きな人もいるかもしれません。

確かにそれは自由です。

 

ただ、それがやっていることの罪深さを今一度考えるべきです。

あまりにも罪深すぎます。

 

わたしはわたしの出来うる限りの方法でNEVERまとめの壊滅を願っています。

 

まちかでした。ありがとうございました。

 

ポリアモリーについてまちかが思うこと

f:id:macska23:20170708180942p:plain

こんにちは。まちかです。よろしくお願いします。

 

夏だね。いよいよ。

 

わたしは夏が好き。

インドア派のわたしがひんやりしたかき氷を思いっきりお外で食べられる。

この季節はなくてなはらないものです。

 

 

 

 

そんでもって今日の本題はポリアモリーについてなの。

 

きっかけはこの記事

headlines.yahoo.co.jp

 

 

ポリアモリーって何?

簡潔にいえば、関係者の同意のもとで複数の人たちと性的な関係を築くことだそうです。

割とカタカナ語に強いと思っていたのだけど、知りませんでした。反省しています。

 

アフィサイト紹介しているサイトの説明だと下記です。

つきあう相手、親密な関係を同時期に、一人だけに限定せず、全ての関係者が全ての状況を知る選択が可能であり、全員がすべての関係に合意している、という考え方に基づく行為、ライフスタイル、または恋愛関係のことを指す。

出典:https://mdpr.jp/column/detail/1553196

 

言っていることは理解できます。

まぁ、今の日本で広く受け入れられているというか法的に保護される関係は一夫一妻の婚姻関係、なんとなく婚姻外の関係もそれに準じてる感じ。

だからそことは全然違う男女の形だと。

 

わたしは正直言って「気持ち悪い」と思う

最初にわたしの立場を書いておきます。

 

「気持ち悪い」

 

わたしは男女の関係にはかなり保守的な人間だと自覚しています。

 

だからこのエントリーは男女の関係について極めて保守的な人間が書いたものであることをご理解ください。

 

「生理的に無理」と言いたいところですが、

わたしのお家はずっと昔から先祖代々みーんなローマ・カトリックの信徒なので、お家での端々にそう言う教育が入り込んでいたことは容易に想像できます。

そのため、わたしの「生理的」が宗教・社会的に作られたものである可能性が高いです。

なので生物としての本能とかそう言うのではどうなのかわかりません。

 

ただ、明確に言えるのは現時点でこの話を聞いた時「気持ち悪い」と思ったのがわたしの率直な感想です。

 

更にいえば、一部の人たちの都合によって社会全体が歪められようとしているような、そう言うものを感じるまであります。

自由、平等を語っておいて、現状を鑑みるにその実かなりのパターナリズム的なものではないかと一抹の危機感をつのらせているところです。

 

そもそも

そもそも法律に照らせば、男女間の「交際」についてはその定義が曖昧です。

いい例が「結婚」の関係は役所に届け出るけど「交際してます!」って役所に届け出る人はいないです。

婚姻関係や婚約といった関係になければ男女間の交際の形をどうこうするのは、本人たちの自由なわけです。

その関係において「わたしは複数の異性とセックスするから、あなたも複数の異性とセックスしていいよ」という同意を作るのは当事者間でそらもう自由にやってくれればいいわけです。

そこを否定はしないし個人の趣味趣向まで口を出すほどわたしはエライ人間でもないです。

だけど、それによって生じる当事者間の現実的な問題や、そもそもその関係の前提がただただ当事者間の「良心」に依っていて、更にはその「良心」の悪用の可能性を考えた時に、煽り系のメディアが「ポリモアリー女性が増加」とかやってるのは本当に気持ち悪いし、何か言わずにはおられませんでした。

 

matome.naver.jp

▲煽り系メディアの代表格。ささっと加担者(く○ライター)ごと消え失せろ

 

ポリアモリーを肯定的に捉えてみる

何事も肯定的に捉えてみることから議論は始まるのでわたしも肯定的に考えてみます。

肯定する考え方はたくさんあると思うのだけど、「種の保存」とかそう言うことを言い出すのは完全に違うと思っているので別の方向で考えてみたいです。

 

1.法的に根拠のある男女間の身体および財産の独占・分配契約

結婚と言うものに疑問を感じるのはアリだと思います。

ポリアモリーの主張もそういった結婚に対するアンチテーゼ的な意味を少なからず帯びているはずです。

そう考えると、社会が流動化してきて個人の自由や平等といったものがより認められる社会に適した考え方だと思います。

 

実際に専門家(?)の方もこう言っています。

 

それもありますが、常識に囚われずに「思考する力」を持っている方が多いという印象ですね。人が人を独占することに疑問を感じたり、結婚制度そのものについて考えたり。「愛してはいけない人がいるなんておかしい」と思い、ポリアモリーの世界に興味をもったという方にも出会いました。

出典:複数人と同時に性愛関係を築く「ポリアモリー」とは? 浮気や不倫と異なる3つの理由|ウートピ

 

婚姻関係が規定する個人による個人の独占。

確かにそれは極めて独善的です。

婚姻という関係が「法的に根拠のある個人間の身体および財産の独占・分配契約」である以上、「リベラルな社会」においてポリアモリーの主張は支持されうるものであると思います。

 

2.関係者皆の同意

もう一つ。

ポリアモリーの重要かつ肯定できる点は関係者が皆そのことに同意しているという部分です。

一人の人間が複数の人物と性的関係を結ぶことをその人のパートナーも承認している。

そういう状態ができてこそ初めてポリアモリー的な関係が成立するわけです。

 

そうなると、関係者間に不要な不和はありません。

婚姻関係であれば、「不倫」とりますが、ポリアモリー的な関係が構築されていれば、複数の人とセックスすること(無論、性愛に限ったことではないですが)にインモラルなものは一切ないのです。

自分のパートナーの全員がそれに同意していれば、より「自由な」生き方が実現すると思えます。

 

 

 

と言った形で肯定的に捉えた上でわたしの「主張」をしていきたいと思います。

 

ポリアモリーが依るのは「良心」だけ

ポリアモリーに関する記事を読んでわたしが最初に感じたのは、それが「良心」に依るという最も危険な関係であるということです。

 

「良心」を前提にした関係だということは、関係構築に考えられうる「良心」を欠いた人が入り込めば容易に崩壊するということです。

 

ポリアモリーは「全員の同意」が前提です。

これがなければポリアモリーではありません。

 

「男女平等」という不確かな原則

そして、この「良心」の問題は「男女平等」という大原則に則っているのです。

 

この点に関して、先の専門家(?)の方もこう述べています。

不倫、浮気、複数交際……関係を持つ全員が合意の上で成り立つ“ポリアモリー”という関係。ポリアモリー研究者の深海菊絵さんは「そこに権力関係がもともとあるかないかも大きい。ポリアモリーは“男女平等の上で”というのが1つのポイントになる」と分析した。

出典:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170701-00010001-abema-soci

 

この「男女平等」「相互に権力関係がない」という状態が非常に厄介な問題で、かなり限定的なコミュニティーでは成立しているのでしょうが今の社会が完全にそれらを実現しているとは思えません。

 

そのクリアしていないものをクリアしうるのは個人間で「男女平等」と「権力関係の消滅」を実現しうる「良心」になるのですが、社会全体で「増えている!」と煽るほどそれを実現できているのでしょうか。

 

男女平等についてはまだまだ道は長そうです。

個人間の権力関係については、例えばある家庭で「働き方を知らない家事を担当してい方と家計を全て支えていた方」(極端な例えです)という関係が成立しており、どちらかが関係の解消を迫った時にどちらが優位になるかは目に見えています。

 

ポリアモリーについて考えられうる先の危機

男女平等や個人間の権力関係の消滅が実現できていると言えない社会で、「良心」にだけ依って複数の異性と性愛関係を持つのは危険です(ここではあえて「異性」とします)。

 

1.ポリアモリーとしての関係に潜む「良心」の欠如

Aさんは都内の企業に勤める会社員だ。ある日、婚姻関係にあるBさんから「実は私はポリアモリーです」と告げられる。

Bさんは続けて「今、複数の異性と性的な関係にある」と告げる。

Aさんは当然納得がいかない。その後、2人は泥沼の争いを繰り広げることになる。

 

これは容易に想像できそうです。

「ポリアモリー」という言葉だけに踊らされてそれが規定する相手に対する「良心」を欠いた人がやりかねない。

 

今後、様々なメディアでセンセーショナルに取り上げられそうな気配を感じるので戒めとして残しておきたい。

 

ポリアモリーとして関係を築くのならば、絶対に「交際が始まる最初にそう告げるべき」なのだと。

 

更に言えば、「ポリアモリー」を盾にして不当な関係を築かれる場合もありそうです。

どちらかが経済的に他方に依存していたなら、経済的に依存している方は嫌でも相手のポリアモリー的な思考を認めざるを得ない場合も出てくるかもしれない。

 

そんなの悲劇でしかない。

 

2.子ども

 

複数の大人が性的な関係を持つということは子どもに対する責任をその大人全員で分担することになるはずです。

 

経済的なものはもちろん、何よりも親子の間にある独特の関係をも共有することになるはずです。

もちろん、事前に「子どもを作るのは特定の相手だけ」と契約書を作っておくこともあるかもしれません。

しかし、避妊していようがいまいが100%はないはずです。

 

もし今後、言葉だけに踊らされたポリアモリーが増えるのであれば、

絶対にこの問題(すでにいまの社会が抱えている問題)をより複雑にしたより悲劇的な問題が起こるのは目に見えています。

 

他にもたくさんの問題が考えられます。

それは「結婚を前提とした社会」だから起こりうる問題ではなく、

性的な関係を「良心」のみを根拠として構築する故の問題です。

わたしが「気持ち悪い」と感じたのは、まさにこの点についてなのです。

 

 

多様性は認められるべき

もしこのまま社会が「複数の異性と関係を持ち続け、それが全面的に肯定される方向」に流れ続けるのであれば、わたしは今後一切セックスしなくてもいいかなと思っています。

はきりいって不要かつ極めて気持ちの悪い「問題」に巻き込まれたくない。

そう思うのです。

 

もちろん性の問題は、LGBTQ等々のお話にも絡むものがあり極めてセンシティブなものです。

多様性は広く認められるべきです。

ただ一方で、今回取り上げたポリモアリーに限定して言えば、社会が未熟な段階では「良心」に依るしかない関係が多数を占めます。

そうなるとその関係に必要な「良心」の欠如した人間も必ず出てきます。

 

そうなることを絶対に忘れてはいけません。

 

どこかで手痛い思いをすることになるのか。

どこかで泥沼の争いに巻き込まれることになるのか。

 

個人の判断ではありますが、どうか後悔のないように。

 

 

まちかでした。ありがとうございました。