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保育園に落ちた、日本死ねは「因果応報」だと思う

こんばんは。まちかです。よろしくお願いします。

ここ最近やっぱり様子がおかしいと思うの。

だからちょっと長めに書くの。

 

 

保育園落ちた、日本死ね

保育園落選に関して再び議論が巻き起こっている。

働きたいのに働けない。

保育園に通う年齢の子どもを持つ保護者の方の気持ちは理解できる。

昨年のこのくらいの時期に事の発端となったエントリーでも一億総活躍社会に触れ、「活躍できない」と書いていた。

理屈はよくわかる。

国は働けというがその仕組みができてない。

それに対して物申すのは至極真っ当だと思う。

 

苦境に立たされた人がいることにわたしは理解を示している。

その前提で読み進めてほしい。

 

議論にイマイチ納得できない

この「保育園落ちた日本死ね」に始まる待機児童問題。

一連の議論を見ても各所からの意見についていまひとつ納得ができなかった。

 

賛成も反対も同じくらい納得できない。

 

一体何が問題で、何を解決しようとしているのか。

そして現状の分析は十分なのか。

センセーショナルな言葉が取り上げられ、悲惨な現状が嘆かれるのはわかるが、それだけでは一向に何も進まない。

 

ものすごく、この国のよくないところを見ている気分になる。

 

「因果応報」

はっきりと言うと、この件に関してはある種の「因果応報」なのではないかと感じる。

何かをやった結果として何かが起こる。

今回のことを特に都市部での問題であると考えると、非常にしっくりくる。

実際につい先日のトピックに取り上げられたのは三鷹市だった。

 

まず、言葉を選ばずに書くならば今回の「果」は「保育園の落選」だ。

悪い結果として保育園の落選があり、そこに対しての不満が爆発しているのが現状だ。

これは何も子どもたちの保護者が何か悪いことをやったとかそう言う話ではない。

単純に原因と結果という意味での「因果応報」なのだ。

 

「因」はなんなのか。

都市への一極集中。

東京に出て働いている人の多さだ。

 

東京に人が集まると言う「因」があって「保育園落選」、それに続く「不満爆発」という「果」があるのだ。

 

 

東京に住むという事

東京に住む人たちはその他の地域の人たちが享受し得ない利益を享受している。

例をあげればきりがない。

時給。下限について言えば東京は900円を超えるが、わたしの出身県では715円だ。

時給715円の県に住んでいたわたしは、夜中に買い物ができるお店が近くになかった。

映画を見たければ2時間かけて県庁所在地の街まで向かった。

流行りの服が並ぶ店もなく、学生が好きな有名コーヒーチェーン店もなかった。

 

しかし東京では全く逆だ。物も人もサービスも溢れている。

東京に住んでいる人たちはその利益を存分に享受しているはずだ。

今現在わたし自身も東京に住むようになってその利益を享受することのできる立場にある。

そして実際に享受している。

 

 

再び因果応報 

ここでまた因果応報の話に戻すと、都会に住むことでたくさんの利益を享受する立場にありながら、一方で不利益も被っている。

 

例えば満員列車。朝の通勤電車は非常に苦しい。

不満もある。

例えばレジの行列。

例えば大通りの渋滞。

 

しかし、こういったことは多くの人が当たり前に受け止めているはずだ。

「都会に住んでいるからしょうがないよね」と。

満員電車に揺られる人の数はかなり多いはずだ。

だけどそれが大声で、ここまで非難されているとは思えない。

 

一度火がついてしまうと声の大きさが物事の方向を左右するようになる。

また、「誰もが享受できる」という感覚があればあるほど、その不満は広がっていく。

 

人の多い街に住んでいる。だから保育園に入れない可能性がある。

 

因果応報で考えれば満員列車と同じだ。

(比喩的に捉えてほしい。もちろん全く同類の問題として扱おうとは思っていない)

ただ満員列車に不満を持ったからといって、都心で仕事をしている人で満員列車に乗らずにすんでいる人はいない。満員列車に関して言えば、声を大にして叫ぶ人もいなければ、満員列車に乗らずにすむという目立って利益に預かっている人もいない。

 

 

何かを得て何かを失うこと

何かを得て何かを失うという単純なことに思いをはせてみてはどうか。

何かを失う原因が自分の中にあることに向き合ってみてはどうだか。

 

問題を解決したければ、根本的な原因となる部分を解消しなければならない。

「因果応報」でことが起こるのならば、「因」となる部分を取り除かなければその苦痛は続くことになる。

 

にも変わらず、今回の議論や各方面を意見を見ると、各自の快・不快だけで物事を発言しているようにしか見えないし、それが大きな声だから社会全体がそちらにどんどん流されているように思える。

 

なぜ自分の周りの快には目が向かないのに、不快には敏感に目が向くのだろうか。

別に「今の日本は我慢を知らない」とかよく聞く議論をしたいのではない。何かを得るということは同じく何かを失う可能性があるとこに気づいてほしいのだ。

その上で問題の解決に入ってほしいのだ。

 

自分に降りかかる清濁両方を併せ呑む必要があるのだ。

なぜ自分の周りだけは常に綺麗であること他者に強要し、その不満を他者にぶつけるのだろうか。

 

今回の問題に関していえば、大きな声で極端な言葉のやり取りが繰り返されるうちに、わかりやすい二項対立の図式が出来上がってしまったように思う。その結果、問題の焦点を絞り真に解決すべき課題を調整しようという動きがどんどん鈍ってきているように思う。

 

「因」を取り除くことを考えなければ「果」は残り続けるのだ。

 

一方が

「保育園が足りない!」

「保育園つくれ!」

 

と過激な発言をし、

 

他方は

「待機児童の問題は解決すべき課題」

「各自治体保育園を増やすように」

 

との回答しかできない。

 

これでは何も解決しない。

 

解決すべきは都市への人的・物質的資本の集中が過大すぎることじゃないのだろうか。

 

足りないからつくれでは何も解決しない。

火が強すぎるからといってその火を消してしまったら、その後寒い冬を過ごさねばならないのは当たり前なのだ。

 

今の世の中、「不快」を手軽く取り除こうとしすぎではないのだろうか。

「消した火はまたつければいいさ」

その積み重ねが今なのだ。

 

 

足りないシェアの考え方

今回の問題は都市部への資本集中が根本的な原因になっているのは間違いないと感じている。

産業革命時代のイギリスでは地方からロンドンへ出てくる労働者が多すぎて住居が間に合わない事態になっていた。

資本の集まる場所に人が集まるのは道理だ。

 

資本主義を否定しようとは思わない。

 

だけども、資本主義にあってどういう社会を築くべきかは今一度議論の余地がある。

 

今後、生産構造が大きく変化するときがくるし、使用できる資源も限られている。

宇宙船地球号」という言葉があるが、まさにこの言葉の通りなのだ。

 

資源は無限に湧き出てくるものではない。

それはあらゆる資源がそうだ。

地球に存在する、宇宙に存在する有機物は限りがあると思う。

 

日本という国で考えてみてほしい。

お金や利便性、そのた諸々の欲求を求めて都市に集まり、その都市で他の場所では享受し得ないサービスを享受し、その上でさらに大声で資源が足りないと不満を述べる。

そしてその不満に対してさらなる資源を投資して抑えようとしている。

よくない連鎖が生まれている。

 

なぜ日本全国で資源をシェアしようとは思わないのか。

 

東京で保育園に入れなければ、保育園に入る事のできる地方に行けばいい。

都市部にさらに保育園を作るよりも地方の空き家を積極的に利用すればいい。

極端な話。そう思うのだ。

 

これからの時代の社会のあり方 

突然「東京から出て行け」と言われて納得できる人はいない。

そこでの仕事もあるし、移動には相応のコストがかかる。

到底納得できるものではない。

 

だから社会を納得できる形に変えていく必要があると思うのだ。

 

資本の分散を会社組織の地方移動という形で実現してもいい。

それにかかるコストは社会全体が負担すればいい。

 

都市に集中する会社組織が地方へ移動したら、日本の生産性は落ちるかもしれない。

しかしそれもひとときのことだと感じる。

日本の生産性の悪さを解消する手がかりになると思う。

都市への資本集中をなくせば、働きに出る事のできる人も増えるし、地方の市場発掘もできるだろう。

 

他にも方法はたくさんあるのではないだろうか。

真に話し合うべきはこの部分ではないのだろうか。

わたし一人の考えではたかが知れている。

 

 

将来もずっと考え続ける事

 最後に。

もし保育園に入れたら。

そして保育園を子どもたちが無事卒園したら。

 

今の社会だと、大声で叫んでいてもいざ自分の番が終わると何事もなかったかのように都市の利益を享受するだけの人が出てくるかもしれない。

 

苦痛が降りかかれば自分事だがそれが去れば他人事のような社会に見える。

 

そうならないために、この問題が解決した後もそのことをずっと考え続けてほしいと思う。

 

次の世代、その次の世代のために。

 

何かの原因があって何かの結果があるのだから。

 

 

 

ありがとうございました。まちかでした。