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妊娠中退についてまちかが思うこと|「宗教」が消えた今

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こんにちは。まちかです。よろしくお願いします。

 

この記事読んで書かずにはおられなかったの。

 

mainichi.jp

 

完全に「チラシの裏」な記事だとも思うから、「偉そうなこと言って何も言ってない!」ていう批判があっても何も返答できなそうで、なんだか申し訳なくもあるのだけれど自分の思考を文字にしておこうと思うの。

 

お話の主題は「宗教」や「学校」なの。

わたしはもともとキリスト教徒で、数年前まで学校の教員をしていたの。

そういう人間の戯言だと思ってもらえばいいの。

 

わたしは歴史の中で宗教が持ってしまった「他者への押し付け」はとてつもなく嫌いだし、「宗教があれば全部解決する!」とは思っていないの。

むしろ、宗教が現代の問題を複雑にしている部分も多分にあると思うの。

 

わたしが提案したいのは、宗教自体も時代に合わせて変化して、より今の時代と今の人間にあったものに昇華すべきという考え方なの。

 

それはまだわたしの中で言葉になっていないものだし、論理としてもチグハグなのかもしれないけど、たかだか20数年かもしれないけれど、わたしが生きてきた中でほとんど確信に近いものになっているの。

 

ゲゼルシャフトゲマインシャフト

学校の教員をやっていて、学校というコミュニティーが極めてゲゼルシャフト的なものになっていることを身を以て感じたの。

 

わたしは、もともと歴史学の中でもいわゆる教育史を専門にしていたのだけど、

近代に入って国家の力が増してきた時から徐々に教育の持つ意味は変わっていって、決定的な変化は19世紀後半に起こったと思っているの。

 

それは言うまでもなく資本主義が国家の力を借りて拡大した過程の中での話なの。

逆に国家が資本主義の力を借りて拡大したとも言えるのだけど、その辺は今回は置いておくの。

 

とにかく、19世紀から現代にかけて、学校の持つゲマインシャフト的な側面は極めてゲゼルシャフトなものに置き換わっていったの。

 

もちろんだからと言ってそれ以前の学校や社会がユートピア的なものだったとは決して思えないの。

人間の社会はこれまでもこれからも最高でもやっぱりずっと60点くらいだと思うの。

 

だけども人が集まる中でゲマインシャフト的なつながりが消えていってしまうことは、決して良いことではないと思うの。

 

 

子どもの凶悪犯罪と妊娠中退に底通するもの

今回の妊娠中退に関する意見をSNSなんかで見てて、

性教育の失敗」をいう意見があるのを結構発見したの。

それに当然のように「自己責任論」も展開されているの。

 

わざわざ引用はしないけどかなりの数の注目を集めているの。

 

もちろん、そこに原因を求めるのは自由ではあるのだけど、わたしが思うのはそう言う表面的な問題ではない、もっと深い問題が関係していると言うことなの。

 

極めて個人的な意見なのだけど、今回の妊娠中退に関わる問題は、子どもの凶悪犯罪やいじめの問題なんかとも底通するものなの。

 

それに社会が「子どもの存在」を作り出したのだとしたら、やっぱりしっかりと保護することがこの社会の責任だと思うの。

自己責任で片付けてしまうのはあまりにも無責任が過ぎると思うの。

 

「道徳教育」と人間

これは道徳の教科化のときにも散々議論されたものだと思うけども、

上のことを考えるときに、道徳教育の罪は極めて重いと思うの。

 

2つ目に携わった学校で「道徳主任」を経験したわたしは、日本の道徳教育が極めて傲慢な価値観の押し付けであり、子どもたちもその教科としての空洞化に気づいていることをひしひしと感じたの。

 

価値観の押し付けというか、行動ルールブック的なものに感じたの。

ルールということは○と×で判定できるの。

 

その行動は○!

その行動は×!

 

そういうのが明確に判定できてしまうようなものなの。

そこには本来もっとも大切にすべき自分の意思は介在しないの。

人間は本来、自分で考えて行動してて、子どもたちの教育では「どう行動するのが正解か」ではなくて「どう考えて、だからこう行動して、それにはどういう意味があるのか」を問うべきなの。

だけども、学校教育における道徳にその力はないの。

 

もちろんこれはゲゼルシャフト化した学校で広まったものなの。

ゲゼルシャフトな集まりは効率や利益の追求なんかと親和性が高いのだけど、

学校にも時代を反映してそういうものが入り込んでいるの。

 

学校の会社化とも言えるかもしれない。

 

もちろん、それについて「国家権力の個人への介入だ!だから政治をどうこうしろ!」とか叫ぶつもりはないのだけども、どうしてもわたしには馴染めない考え方なの。

 

社会全体に欠けている「自分とは」「よく生きるとは」という問い

とてつもなく極端な話に感じるかもしれないのだけども、「宗教」の喪失を学校「道徳」は埋めることができていないの。

わたしはカトリックだから、宗教に関する敷居が人よりも低いのだろうということは感じているの。

その上での意見なので、全くもって客観的かと言われればそうではない可能性の方が高いと思うの。

 

だけども、わたしのいう「宗教の喪失」は、「神を信じろ」とかそういう価値観が消えたことを指摘しているのではなくて、もっとも根源的な宗教の役割についてなの。

それは「自分の生き方を客観視する視点」が消えたことを指摘する言葉だと思って欲しいの。

 

「悪いことをしちゃいけない」とか「誰かに見られている」とか「自分の正しさが果たして本当に正しいのかどうか」とか

そういう感覚が薄れていることが重要で、本来であれば宗教が埋めていたそういうある種の客観的な要因による理性の維持を今の道徳教育は全くもって保証していないの。

 

これは子どもによる悲惨な犯罪が起こるたびに思うことだし、今回のような個人の生き方に関する部分でもいつも思い出すことなの。

 

そして子どもたちは社会を映す鏡だって言われたりするけど、まさに今の社会にもこの感覚が欠けているの。

   

人間の限界

色々なものが便利になってるし、ある意味、人間はたくさんのものを支配下に置いているの。

だけど実はそのことに支配されているの。

ある種の全能感とか直線的な進歩観とか。

 

それは前時代的なものだと考えられるものを否定し、嫌い、

本来、実は人間が無力である場面でも優位にいるという錯覚を作り出しているの。

 

わたしはその社会が孕む危険性が今まさに目の前に突きつけられていると思うの。

 

ある種の問題が発生したときに「必ず個別に対応する方法がある」と思えてしまうのはその例だと思うし、目の前の課題を別の問題に置き換えて解決した気になってしまうのもその例だと思うの。

 

実はもっともっと深いところに問題が横たわっているの。

 

60点の社会だけど

こうやっていろいろいっても60点の社会はやっぱり60点だし、過去を鑑みればそれは幸福な数字だとも思うの。

だけど、その少しだけ上に、

全体に共有される「他人への親切」や「自分の行動の正しさに疑問を持つ」っていう感覚があれば、もう少しだけ豊かな未来があると思うの。

 

それが一律に「こうだからこうだ」という行動の規範みたいなものを決めてしまっても、それは解決にはなっていないの。道徳教育と一緒なの。

 

だから、宗教が消えてしまった社会で、社会全体に広がるようなそういう内面に訴えかける存在が必要だと思うし、それは決してこれまでの宗教のようなものでもダメだと思うの。

 

「自分を大切にする」という根本的な部分が、何にもまして大切ではあるのだけど、

それを社会の中で共有されうるような感覚にしていくことが大切だと思うの。

 

それは「自分だけが大切」ではなくて「自分もみんなも大切」だと思う感覚で、それが共有される社会こそ、今の時代に「宗教の次の宗教」が目指すべき形だと思うの。

 

最後に

もちろん、今回の妊娠中退の問題が、

わたしの書いたようなことだけで完全に解決するとは言えないかもしれない。

その解決には、

文化的再生産をクリアする社会的な制度の導入が必要かもしれないと思うの。

 

だけど、今の社会とある種の倫理観の間にある絶望的なまでの距離を言わずにはおられなかったの。

 

まちかの小言だと思ってくれていいけど、心のどこかで考え続けてもらえれば幸いです。

 

ありがとうございました。まちかでした。